進化論:最も強いものが生き残るのではない。生き残るのに必要なもの


【It is not the strongest of the species that survive】
『最も強いものが生き残るのではない。』
この英文は今年のオリラジ単独「FAITH」でオリラジロゴに添えられていたものです。

ダーウィン種の起源』の一節として知られており、原文では
【…nor the most intelligent, but the one most responsive to change】
『最も強い種や最も賢い種ではなく、最も変化に強い種が生き残る』と続き、
生き残るためには変化に適応することが重要であるという意味で、よく引用されています。

が、どうやら実際はダーウィンの「種の起源」の中にこのような記述はないらしく、下記サイトによると

この言葉はダーウィン自身のものではなく、後の創作であり、警句としてよくできていたために、主にビジネス関係者の間で生き残ってきたもの
ダーウィンは「変化に最も対応できる生き物が生き残る」と言ったか?

(2017/11/6 リンク切れていたのでURL修正)
後世の創作によるものという可能性が強いらしいです。面白い。

あっちゃんはなぜこの文の前半だけ引用したのか?
もちろんデザインの都合で長い文章が入り切らない!という要因も大きいでしょうが
「最強であることが生き残る道ではない!」という強い気持ちはありつつ、
「じゃあ変化に強ければ大丈夫なの?生き残れるの…?」と言われると「そうとも言い切れないかもしれないけど…」という少しの躊躇があったのかもしれないと思います。

変化に強ければ生き残れるのか?
もちろんその方が有利ではあるけれど、
変化が起きるときはダイナミックで、スピードはものすごく早く、
生物が適応しようとしていても限界があります。

生き残るかどうかは「運」

進化生物学者スティーブン・J・グールドによる『ワンダフルライフ』を読んで思ったこと。

ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

私達は進化について「生存に有利で優れた種が生き残ってきた(=だから進化して今生き残っている種の方が、絶滅してしまった昔の種より優れている)」と考えてしまいがちだけど、
グールドは生物が生き残るか死滅するかは、変化が起きた時に「たまたま」適応できる能力があった、とか幸運だった、とかで、能力というより偶然の要素の方が影響がはるかに大きいと述べている。

例えば魚は、それまで完璧に水中生活に適応していても、水が乾上がれば死に絶えてしまう。
でも(それまであまり必要ではなかった)肺呼吸する能力を持つ肺魚の仲間は、生き残ることができる。
それは、肺魚自身に「変化を予測して対応する能力」があったからでも、魚より肺魚の方が優れていたからでもなく、肺魚の持っていた性質が、予測できない突然の環境変化に「たまたま」対応することができたという幸運の結果にすぎない。

『生命はたくさんの枝を分岐させ、絶滅という死神によって絶えず選定されている樹木なのであって、予測された進歩の梯子ではない。』
たくさん生まれて、たくさん死ぬ。たまたまわずかな運のいいものだけが生き残る。
どれが生き残って進化するかは予測できない。生物の歴史はその繰り返し。
カンブリア紀には今よりもっと多彩で多様な種が存在していたけれど、生き残って進化を続けることができた種はごくわずかで、ほとんどは絶滅してしまっている。
『生存か死滅かはほとんどランダムにはたらく原因によるもので、全体的な絶滅確率はとても高くほとんどが滅んでしまう』ということをグールドは「悲運多数死(デシメーション)」という言葉で表している。

「その種が絶滅するか繁栄するかは能力に関係なく、生き残ったのはたまたま運が良かったからである」

これを、過酷な生存競争の世界であるお笑い芸人にあてはめて考えてみると、
今生き残っている芸人たちは他の芸人より優れていたから、強かったから生き残っている、というよりも、
「たまたま」の要素が大きいことになる。

もし100年前の「吉本興業誕生の年」に戻ってもう一度歴史をやりなおしてみたら、今とは全然違う勢力図になってるかもしれない。
何度リプレイしても勝者が同じ顔ぶれになるのであれば、たしかに生き残っている芸人さんたちは「強い」か「賢い」か「変化に適応できた」おかげで生き残るべく残っているのだし、消えた人たちは消えるべくして消えたのだろう。
でもおそらく、何度リプレイしても、そのたびに、繁栄している人たちは全然違う顔ぶれになっているはずで、偶発性の積み重ねで「たまたま」成功して大物になったり人気が出たり、一発屋になったり、一発も当てられずに消えて行ったりしているのかもしれない。
そもそも芸人にならなかった人もいるだろうし、テレビ番組の形も違うだろうし、お笑いの形も状況も違うかも。

私の好きな人たちに関しても。何かほんの少しの偶然で、私は彼らを好きになってなかったかもしれないし、彼らも今の形ではなかったかもしれないし、そもそも私も彼らも存在しなかったかもしれない。
(もっと大きく考えると)それどころか今の人類すら存在していたかわからない。
もしかすると私達ホモ・サピエンスじゃなく、北京原人ネアンデルタール人から進化したヒト族が地球を支配していたかもしれないし、もっと想像もできないような形の種族が地球上で繁栄していたかもしれない。

この宇宙には無数の並行世界がある!というパラレルワールドのような話で、今とは違ういろんな可能性があったかもしれないと想像すると面白いし、
自分の生きている現実が偶然に偶然を重ねた結果だと思うと、今ここにこのように存在しているということは奇跡のようなことなんだなぁと改めて思うわけです。

幸運な偶然を呼び寄せるもの

私の好きな人たちは今までもかなり面白い運命をたどってきている。
彼らがこの先の変化にあわせ、どう進化していくのか、どうやって生き残っていくのか、
こうすれば大丈夫とか、こうなるだろうとか、予測はできないけれど。
昨今の解散ラッシュで、すごく面白くて才能があっても、辞めてしまう人たちや、
いろいろな進路の決断をしている芸人さんたちを見るにつけて、
今、こうして見て応援していられることはつくづく幸せなことなんだと思う。

そして、たとえ生き残れるかどうかを決定するのはたくさんの偶発的要因によるとしても、
「生き残ること」に執着して、強い意思を見せている人たちに
これからも「幸運な偶然」が起き続けないわけがない、とも思います。
たくさんの幸運な偶然に恵まれますように。彼らがそれを引き寄せますように。と祈ると同時に、
結局何がどうなったって、彼らがどういう方向に進化したって、彼らが存在して彼らでいる限りは、
興味深く面白く見守り続けるんだろうなという気がしています。